正当防衛と逆恨みの境界線:事件事例から考える被害者感情と法的判断

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正当防衛が成立し無罪となった加害者に対して、遺族や関係者が強い憎しみを抱くことは珍しくありません。しかし、その感情が「逆恨み」に当たるのか、あるいは自然な心情として理解されるべきなのかは、しばしば議論を呼びます。この記事では、正当防衛をめぐる代表的な事件を例に、法的判断と人間の感情の間にあるギャップを整理し、逆恨みと正当な感情表出の違いについて考察します。

正当防衛の成立要件と法的判断

日本の刑法第36条は、自己や他人の権利が不法な侵害を受けた場合に、必要かつ相当な範囲でこれを防衛する行為は罪に問われないと定めています。つまり、侵害が切迫しており、防衛行為が必要性・相当性を満たしていれば、刑事責任は免れるのです。

例えば2006年、栃木県警の警察官が職務質問中に石を振りかざして襲いかかってきた男性を射殺した事件では、裁判所は「生命を脅かす危険な攻撃に対し、発砲は合理的で正当防衛に当たる」と判断し、無罪が確定しました。[参照](https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2303V_T20C13A4CC1000/)

遺族の感情と「逆恨み」との違い

一方で、遺族が加害者(無罪となった人物)を憎むことはしばしば見られます。これは法的には正当防衛であっても、大切な家族を失った悲しみや怒りが原因です。この感情は人間として自然であり、「逆恨み」と単純に断じるのは適切ではないかもしれません。

逆恨みとは、通常、自分の不正行為や過失が原因で不利益を受けたにもかかわらず、その責任を他者に転嫁して憎しみを抱くことを指します。つまり、被害者の立場からすれば「憎む」感情は理解できても、それを社会的・法的に正当化することはできないのです。

西船橋駅ホーム転落死事件の教訓

1986年の西船橋駅ホーム転落死事件では、酔った男性が女性に絡み、女性が突き飛ばした結果ホームから転落して死亡しました。裁判所は女性の行為を正当防衛と認めましたが、亡くなった男性の遺族が女性を恨むケースも想定されます。

この場合、酔っ払いの男性が先に暴行(胸ぐらを掴む行為)を働いたため事故の原因を作ったのは男性側です。したがって、遺族が女性を憎むのは法的には逆恨みと解釈される余地が大きいでしょう。

民事訴訟における可能性と限界

刑事裁判で無罪が確定しても、民事裁判では損害賠償請求がなされることがあります。ただし、正当防衛が成立すれば民事上の不法行為責任も認められないのが原則です。西船橋事件において仮に遺族が損害賠償を請求しても、「被害者の過失が事故の原因」と判断され、請求は棄却される可能性が高いと考えられます。

このように、感情としての恨みと、法律上の責任追及には明確な線引きが存在します。

「死んで当然」という言説への違和感

ネット上では「加害者は死んで当然」という極端な意見も散見されます。しかし法的には人命は平等に尊重されるべきであり、どのような罪を犯した人間であっても「死んで当然」とするのは正義とは言えません。

ただし、危険な行為に及んだ人物に対して一定の自己責任を問うことは可能であり、社会的な評価や議論の余地は残ります。

まとめ:法と感情の溝をどう埋めるか

正当防衛が認められた事件では、遺族の憎しみは自然な感情でありながらも、法的には「逆恨み」と評価される場合があります。刑事責任と感情的責任は必ずしも一致せず、そのギャップが議論を生むのです。

重要なのは、正当防衛の本質を理解し、法的判断と人間の心情を切り分けて考えることです。そうすることで、無用なネットリンチや感情的対立を避け、より健全な議論へとつなげることができます。

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