国際刑事裁判所(ICC)は、ジェノサイド(集団殺害犯罪)、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪といった重大な国際犯罪について、責任を負う個人を訴追するために設けられた常設の国際刑事裁判所です。一方、米国のトランプ政権はICCを強く批判し、2025年2月にはICC関係者を対象とする制裁を可能にする大統領令を発出しました。
この対立を理解するうえで重要なのは、単純に「ICCが悪いから米国が制裁した」「米国がICCの捜査を妨害している」という一方向の構図にしないことです。争点の中心には、ローマ規程に加盟していない国の国民にICCがどこまで管轄権を及ぼせるのかという、国家主権と国際刑事司法の難しい問題があります。
さらにICCはロシアのプーチン大統領に逮捕状を出した後、逆にICCの検察官や裁判官がロシア当局の対象となりました。この記事では、ICCの基本的な仕組み、トランプ政権が制裁した理由、イスラエルをめぐる対立、ロシアとの関係、そしてICCを「良い組織・悪い組織」と単純評価できない理由を整理します。
- そもそも国際刑事裁判所(ICC)とは何か
- ICCは各国の裁判所より常に優先されるわけではない
- 米国はそもそもICCの加盟国ではない
- トランプ政権が2025年にICCを制裁した直接的な理由
- では、なぜICCはイスラエル人について管轄権があると考えるのか
- 制裁されるとICC関係者には何が起きるのか
- 実はトランプ政権によるICC制裁は2025年が初めてではない
- ICCは「良くない組織」なのか
- ICCには「世界警察」がないという大きな限界がある
- ロシアとICCが対立した理由はプーチン大統領への逮捕状
- 「ICCがロシアに指名手配されている」とはどういう意味か
- 米国とロシアのICCへの対応は同じ理由ではない
- ICCを評価するときは「目的」と「権限」を分けて考える
- ICCと国際司法裁判所(ICJ)は別の裁判所
- まとめ:トランプ政権のICC制裁はイスラエルへの逮捕状と非締約国への管轄権問題が中心
そもそも国際刑事裁判所(ICC)とは何か
ICCはオランダ・ハーグを本拠地とする常設の国際刑事裁判所です。1998年に採択されたローマ規程を法的基盤としており、2002年に発足しました。
対象となるのは国家そのものではなく個人です。例えば国家元首、軍指導者、武装勢力の指導者などについて、ICCの管轄に入る重大犯罪に対する個人の刑事責任を追及します。
ICC自身も、国家・政府・政党を訴追する裁判所ではなく、管轄対象となる重大犯罪について個人を捜査・訴追する機関であると説明しています。[参照:国際刑事裁判所(ICC)公式サイト]
ICCは各国の裁判所より常に優先されるわけではない
ICCを理解するときに非常に重要なのが「補完性(Complementarity)」という原則です。ICCは各国の刑事裁判所を置き換えるために存在しているわけではありません。
基本的には、それぞれの国が犯罪を捜査・訴追する責任を持ちます。関係国が同一人物について実質的に同じ行為を真正に捜査・訴追しているのであれば、原則として国内司法が優先されます。
一方、国が本当に捜査・訴追する意思を持たなかったり、それを実行できなかったりする場合などにはICCが役割を果たします。ICC自身もこの仕組みを「補完性の原則」と説明しています。[参照:ICC Understanding the International Criminal Court]
米国はそもそもICCの加盟国ではない
ICCと米国の対立を理解する最大のポイントの一つが、米国はローマ規程の締約国ではないということです。イスラエルも締約国ではありません。
米国では以前から、自国が加入していない条約を根拠とする裁判所によって米国人が訴追される可能性に強い警戒があります。特に米軍関係者や政府関係者が海外での活動を理由としてICCの捜査対象になることについて、主権や安全保障上の問題だという立場を取ってきました。
この問題はトランプ氏だけの個人的な考えというわけでもありません。米国では2002年にAmerican Servicemembers’ Protection Actが成立しており、ICCと米国との関係には長年にわたる政治的・法的な緊張があります。
トランプ政権が2025年にICCを制裁した直接的な理由
ドナルド・トランプ大統領は2025年2月6日、「Imposing Sanctions on the International Criminal Court」と題する大統領令14203を発出しました。大統領令では、ICCが米国とその同盟国イスラエルを対象に「違法かつ根拠のない行動」を行ったというのが米政権側の主張として示されています。[参照:米ホワイトハウス 大統領令14203]
特に大きなきっかけになったのが、ICCによるイスラエル関係者への対応です。ICC予審裁判部は2024年11月、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相とヨアヴ・ガラント前国防相について、ガザ情勢に関連する人道に対する犯罪および戦争犯罪の容疑で逮捕状を発付しました。[参照:ICC 2024年11月21日発表]
これに対してトランプ政権は、米国もイスラエルもローマ規程の締約国ではなく、ICCの管轄権を認めていないとして強く反発しました。大統領令では、ICCの行為が米国の主権を侵害し、米国および同盟国の国家安全保障・外交政策を脅かすという立場が示されています。
では、なぜICCはイスラエル人について管轄権があると考えるのか
ここが米国・イスラエル側とICC側の主張が大きく食い違うところです。「イスラエルがICCに加盟していないなら、イスラエル人を捜査できないのではないか」と考えるのは自然です。
しかしICC側は、パレスチナがローマ規程の締約国であり、ICCの管轄権がガザ地区とヨルダン川西岸地区(東エルサレムを含む)に及ぶという判断を示しています。そのため、容疑者の国籍だけではなく、犯罪が行われたとされる領域などを根拠として管轄権が成立し得るという考え方です。
ICC予審裁判部は2024年11月の決定でも、問題となっている行為がICCの管轄に入るとの判断を示しています。つまり、米国・イスラエル側は非締約国へのICCの権限行使を問題視し、ICC側は領域的な管轄権などを根拠としているという構図があります。
制裁されるとICC関係者には何が起きるのか
2025年の米大統領令では、一定のICC関係者について米国内にある資産・財産上の利益を凍結できる仕組みや、米国への入国を制限する仕組みなどが設けられました。
その後、ICC検察官や裁判官などが実際に米国の制裁対象になりました。ICC側の2026年度関連資料によると、2025年6月5日には4人のICC裁判官が制裁対象に指定され、それ以前に検察官も指定されていました。
さらにICC締約国会議側の資料では、2025年8月20日に米国が追加のICC関係者4人への制裁を発表したことも確認できます。したがって「ICCが制裁された」という表現は、裁判所という建物や組織全体が丸ごと停止させられたという意味ではなく、ICCの検察官や裁判官など特定の関係者を対象とする経済制裁・入国制限などが実施されていると理解する方が正確です。
実はトランプ政権によるICC制裁は2025年が初めてではない
トランプ政権とICCの対立には前史があります。第1次トランプ政権でも、アフガニスタン情勢をめぐるICCの捜査などに反発し、2020年にICC関係者への制裁措置が取られました。
その後、バイデン政権は2021年4月にこの制裁を解除しました。当時のブリンケン国務長官は、ICCによるアフガニスタンやパレスチナ関連の対応には引き続き強く反対するとしながらも、経済制裁や査証制限について「不適切かつ効果的ではなかった」との評価を示しました。[参照:米国務省 2021年4月2日]
つまり米国とICCの管轄権をめぐる対立そのものは、2025年に突然始まったものではありません。政権によって対抗措置の強さは異なりますが、ICCの権限について米国が以前から留保や反対を示してきたという背景があります。
ICCは「良くない組織」なのか
ICCを単純に「良い組織」「悪い組織」のどちらかに分類するのは適切ではありません。まずICCが作られた目的そのものは、ジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する犯罪など、極めて重大な犯罪について責任者の不処罰を防ぐことにあります。
国内司法が機能しない状況では、重大犯罪が行われても権力者や軍事指導者が処罰されないことがあります。そのような場合に国際的な司法機関が存在することには大きな意義があります。特に被害を受けた側から見れば、国内では得られない司法的救済や責任追及につながる可能性があります。
一方で、ICCの権限や運用には以前から批判もあります。非締約国の国民への管轄権、国家主権との衝突、捜査対象の選択、政治的中立性に対する疑念、逮捕を各国の協力に依存していることなどが代表的な論点です。
ICCには「世界警察」がないという大きな限界がある
ICCは逮捕状を出すことができますが、自前の警察組織を持って世界各国へ容疑者を逮捕しに行けるわけではありません。逮捕状を実際に執行するには、基本的に各国の協力が必要になります。
そのため逮捕状が発付されても、対象者がICCへ引き渡されなければ裁判が進まないことがあります。ICC自身も、裁判所には決定や逮捕状を執行する警察・執行部隊がなく、締約国の協力に依存していると説明しています。
これはICCの重要な弱点です。国際的に大きな権力を持つ国家や、その国家によって保護されている人物を実際に裁判へ出廷させることは容易ではありません。
ロシアとICCが対立した理由はプーチン大統領への逮捕状
ロシアとICCの関係が急激に悪化した大きなきっかけはウクライナ情勢です。ICC予審裁判部は2023年3月17日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領とマリア・リボワ=ベロワ大統領全権代表(子どもの権利担当)について逮捕状を発付しました。[参照:ICC ウクライナ情勢]
ICCは、占領地域からロシアへの子どもの違法な移送・追放という戦争犯罪について、それぞれが個人として刑事責任を負う合理的な根拠があると判断しました。
その後ICCは、ロシア軍関係者についても複数の逮捕状を発付しています。このためロシア政府とICCは極めて対立的な関係になりました。
「ICCがロシアに指名手配されている」とはどういう意味か
正確には「ICCという組織そのものが指名手配された」というより、ICCの検察官や裁判官などの個人に対してロシア当局が刑事手続きや逮捕状などの措置を取ったということです。
2023年には、ICC締約国会議の議長団がロシア当局によるICC検察官や裁判官への措置について懸念を表明し、ICCの職務を妨害する威圧的行為だとして批判しました。[参照:ICC締約国会議 2023年5月20日]
2025年末のICC側資料では、米国による制裁対象となっているICC高官が複数いる一方、ICCの裁判官・高官らについてロシア側の逮捕状・指名手配の対象となっていることも報告されています。つまりICCは、イスラエル関連では米国から強い圧力を受け、ウクライナ関連ではロシアから強い圧力を受けているという状況です。
米国とロシアのICCへの対応は同じ理由ではない
米国とロシアの双方がICC関係者に強硬な措置を取っているため、一見すると同じように見えます。しかし背景は分けて考える必要があります。
米国は、ローマ規程に参加していない米国やイスラエルの国民にICCが権限を及ぼすことを国家主権上の問題として批判しています。2025年のトランプ政権による制裁では、とりわけネタニヤフ首相とガラント前国防相への逮捕状が直接的な争点になりました。
一方のロシアについては、ICCがプーチン大統領らに逮捕状を発付したことを背景として、ロシア当局がICC検察官・裁判官らに対する措置を取っています。それぞれ別の事件と法的・政治的背景を持つため、「米国もロシアも同じ理由でICCを敵視している」とまとめるのは正確ではありません。
ICCを評価するときは「目的」と「権限」を分けて考える
ICCを理解するには、組織の存在目的と、個別事件での管轄権判断を分けると分かりやすくなります。ジェノサイドや戦争犯罪などを行った人物を、その地位にかかわらず法によって裁くという目的には、国際社会における重要な意義があります。
しかし、その目的が重要だからといってICCによるすべての判断が自動的に正しいことにはなりません。反対に、米国やロシアなどがICCを批判しているからといって、ICCそのものが違法・無意味な組織になるわけでもありません。
個別事件については「ICCに管轄権が成立するのか」「国内司法による真正な捜査・訴追が行われているのか」「証拠に基づいて公平に判断されているのか」といった論点を一つずつ検討する必要があります。
ICCと国際司法裁判所(ICJ)は別の裁判所
ニュースではICCとともに「ICJ」という略称も頻繁に登場するため、混同されることがあります。しかし国際刑事裁判所(ICC)と国際司法裁判所(ICJ)は別の機関です。
ICCは重大な国際犯罪について個人の刑事責任を追及します。それに対してICJは国連の主要な司法機関であり、基本的に国家間の法的紛争などを扱います。
例えば「ある国家元首個人に戦争犯罪の容疑で逮捕状を出す」というのはICCの領域です。一方、「国家Aと国家Bの間で国際法上の義務に違反したかを争う」という問題はICJで扱われる可能性があります。この違いを理解しておくと国際ニュースがかなり読みやすくなります。
まとめ:トランプ政権のICC制裁はイスラエルへの逮捕状と非締約国への管轄権問題が中心
トランプ政権がICCへの制裁を実施した最大の背景には、ICCによる米国および同盟国イスラエルへの権限行使に対する反発があります。特に2024年11月にICCがイスラエルのネタニヤフ首相とガラント前国防相への逮捕状を発付したことが、2025年2月の大統領令につながる重要な出来事となりました。
米国側は、米国もイスラエルもローマ規程の締約国ではなく、その国民にICCが管轄権を行使することは主権侵害につながるという立場です。これに対しICC側は、パレスチナ領域などについてICCの管轄権が成立するとの法的判断を示しています。
またロシアとの対立では、ICCが2023年にプーチン大統領らへ逮捕状を発付した後、ロシア当局がICC検察官や裁判官を対象とする措置を取りました。このため「ICCがロシアに指名手配されている」という表現は、厳密にはICC関係者がロシア当局による逮捕状・指名手配などの対象になっているという意味になります。
ICCは「良い組織か悪い組織か」の二択ではなく、重大な国際犯罪の不処罰を防ぐ重要な役割を持つ一方、その管轄権と国家主権との境界をめぐって大国との深刻な対立を抱えている国際裁判所、と理解するのが実態に近いでしょう。
国際政治ではICCへの賛否と、特定事件におけるICCの法的判断への賛否も分けて考える必要があります。米国、イスラエル、ロシア、ICCそれぞれの主張だけを見るのではなく、ローマ規程、裁判所の決定、各国政府の公式文書を照合することが、ICCをめぐるニュースを正確に理解するうえで重要です。

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