北方領土交渉では何が話し合われてきた?日ソ共同宣言から日露平和条約交渉まで時系列で解説

政治、社会問題

北方領土をめぐる日本とソ連、そして現在のロシアとの交渉は、単純に「四島を返す・返さない」だけを話し合ってきたわけではありません。交渉の中心には、歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の帰属、平和条約の締結、島の引渡しをどのような条件で実現するのか、現在の島民をどう扱うのか、共同経済活動や元島民の墓参をどう実施するのかといった複数の論点がありました。

さらに時代によって交渉の重点も変化しています。1956年の日ソ共同宣言、1993年の東京宣言、2001年のイルクーツク声明、2018年以降の日ソ共同宣言を基礎とした交渉などを追っていくと、「何について日露が合意し、どこで折り合えなかったのか」が見えやすくなります。

この記事では、日本政府が公開している外交資料を中心に、北方領土をめぐる交渉で実際に何が話し合われてきたのかを時系列で整理します。なお、領土の法的評価について日本とロシアの主張は異なるため、両国の立場の違いも区別して説明します。

そもそも北方領土交渉の最終的なテーマは「平和条約」だった

北方領土問題を理解するときに重要なのは、領土交渉と平和条約締結交渉が密接に結び付いてきたことです。日本とソ連は第二次世界大戦後、1956年の日ソ共同宣言によって戦争状態を終了させ、国交を回復しましたが、平和条約そのものは締結できませんでした。

日本政府は北方領土を歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島とし、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することを基本方針としてきました。一方、ロシア側は第二次世界大戦の結果として四島がロシア領になったという立場を示しており、この歴史的・法的認識の違いが交渉を難しくしてきました。[参照:外務省 北方領土問題の概要]

つまり「北方領土交渉」と呼ばれるものの大きな目的は、領土問題について双方が受け入れられる決着を見つけ、その上で第二次世界大戦後の日露関係を最終的に整理する平和条約を締結することにありました。

1956年の日ソ交渉では何が話し合われたのか

戦後の日ソ間で大きな転換点となったのが1956年です。日本とソ連は平和条約締結を目指して交渉しましたが、国後島と択捉島の帰属をめぐって合意できませんでした。そのため、領土問題の最終解決を将来に残したまま、まず国交を回復することになりました。

そこで成立したのが日ソ共同宣言です。共同宣言第9項では、国交回復後も平和条約締結交渉を継続することが定められました。そしてソ連は、日本の要望と利益を考慮し、歯舞群島と色丹島を平和条約締結後に日本へ引き渡すことに同意しました。[参照:外務省 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言]

ここで注意したいのが「返還」ではなく、共同宣言の条文では「引き渡す」と表現されていることです。また、実際の引渡しは平和条約締結後とされました。後の日露交渉で1956年の日ソ共同宣言が繰り返し重要文書として登場するのは、この規定があるためです。

最大の難題は国後島・択捉島をどう扱うかだった

1956年の段階で歯舞群島と色丹島については「平和条約締結後の引渡し」が文書化された一方、国後島と択捉島については日ソ間で合意できませんでした。

日本側は四島の帰属を解決するという立場をとってきました。一方、ロシア側には1956年の日ソ共同宣言に基づく歯舞・色丹の扱いを中心に考え、それ以上の領土問題は存在しないとする主張があります。日本政府はこれに対し、四島の帰属の問題が後の東京宣言などでも確認されていると反論しています。[参照:外務省 北方領土問題の概要]

この違いを簡単に表現すると、「平和条約を締結した後に歯舞・色丹を引き渡す」という1956年の合意を、残る国後・択捉の問題とどのように結び付けて最終決着させるかが長年の重要論点になったということです。

1993年の東京宣言では「四島の帰属」が明記された

ソ連崩壊後のロシアとの交渉で重要な文書となったのが、1993年の東京宣言です。

東京宣言では、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島について、その帰属に関する問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国間で合意された文書や法と正義の原則を基礎として解決することで平和条約を早期に締結するという交渉指針が示されました。これにより、四島が交渉対象として具体的に確認されたことに大きな意味があります。[参照:外務省 日ソ・日露間の平和条約締結交渉]

したがって、日露交渉を「二島返還か四島返還か」という数字だけで理解すると、実際の外交交渉を単純化しすぎてしまいます。重要なのは、それぞれの島について「帰属」「引渡し」「平和条約」という論点をどのように組み合わせて合意するかでした。

2001年のイルクーツク声明では1956年と1993年の文書をつないだ

2001年には森喜朗首相とプーチン大統領による首脳会談を経て、イルクーツク声明が発表されました。

ここでは、1956年の日ソ共同宣言が平和条約締結交渉の出発点を設定した基本的な法的文書であることが確認される一方、1993年の東京宣言に基づいて四島の帰属に関する問題を解決し、平和条約を締結することも再確認されました。[参照:外務省 日ソ・日露間の平和条約締結交渉]

この時期には、歯舞・色丹について1956年の日ソ共同宣言に基づく引渡しの問題を具体的に協議しながら、国後・択捉の帰属についても並行して協議するという考え方が示されました。

つまり、すでに「引渡し」が文書に記されている歯舞・色丹と、帰属そのものについて両国の立場が大きく異なる国後・択捉を、同じ進み方で交渉する必要はないという発想です。ただし、日本政府は当時も四島の帰属を解決して平和条約を締結するという基本方針自体は変更していないと説明しています。

交渉では「島を渡した後」の問題も重要になる

領土問題が解決した場合、地図上の国境線を変更すれば終わりというわけではありません。北方四島にはロシア人住民が生活しているため、その人々の生活、財産、権利などをどう扱うのかという現実的な問題があります。

日本政府は、領土問題の解決に当たって現在北方四島に居住しているロシア人の人権、利益、希望を十分尊重する考えを示しています。[参照:外務省 北方領土問題に関するQ&A]

例えば仮に領土の帰属について政治的合意が成立しても、行政制度、住民の法的地位、財産、往来など多数の実務問題を整理しなければなりません。領土交渉が非常に長期間にわたる理由の一つは、このように最終合意後の現実まで考える必要があるためです。

安全保障も交渉の背景にある

北方領土問題では安全保障も無関係ではありません。1956年の日ソ共同宣言後、日本が1960年に米国との新しい日米安全保障条約を締結すると、ソ連側は歯舞・色丹の引渡しについて、日本領土から外国軍隊が撤退することを新たな条件として主張しました。日本政府は、この条件は共同宣言には存在しないという立場をとっています。

その後の日露交渉でも、日米同盟や米軍の存在がロシア側の安全保障上の関心事項として取り上げられてきました。このため領土問題は、二国間だけの歴史問題ではなく、北東アジアの安全保障環境とも結び付いています。

一方で、日本側から見ればロシアによる北方四島での軍備強化も重要な問題です。つまり双方が領土だけでなく、合意した後に相手国や第三国の軍事的活動がどうなるかを意識してきたことになります。

2016年以降は共同経済活動が大きなテーマになった

2016年の日露首脳会談では、従来の交渉の停滞を打開するため「新しいアプローチ」で交渉を進める方針が示されました。同年12月のプーチン大統領訪日時には、北方四島で特別な制度の下で共同経済活動を行うための協議を開始することで合意しました。[参照:外務省 プーチン・ロシア大統領の訪日]

共同経済活動には重要な条件がありました。日本がロシアの主権を認めたことになっても、反対にロシアが日本の主権を認めたことになっても交渉が成立しにくいため、日露双方の法的立場を害さない形で実施する制度を模索したのです。

その後、海産物の共同増養殖、温室野菜栽培、島の特性に応じたツアー、風力発電、ごみ減容対策などの事業候補について検討が進められました。これは経済的利益だけを目的とするものではなく、四島で日露が協力できる環境を作り、平和条約締結に向けた信頼醸成につなげる意味もありました。

元島民の墓参や「ビザなし交流」も交渉の一部だった

領土交渉と並行して、北方四島の元島民と現在のロシア人住民との人的交流も進められてきました。

代表的なのが北方墓参、四島交流、自由訪問です。四島交流、いわゆる「ビザなし交流」は、日露双方の領土問題に関する法的立場を害さないという前提で設けられた特別な枠組みでした。[参照:外務省 北方領土問題に関するQ&A]

2016年の首脳会談でも、元島民による墓参などの手続きを改善することで一致しています。その後、航空機を利用した特別墓参など、元島民の身体的負担を軽減するための取り組みも実施されました。

こうした交流は領土の帰属そのものを決定する交渉ではありませんが、長期化する問題の中で元島民の高齢化に対応するとともに、日本人と島のロシア人住民の相互理解を深める役割を持っていました。

2018年には「1956年の日ソ共同宣言を基礎」に交渉を加速することになった

近年の交渉で特に注目されたのが2018年です。同年11月のシンガポールでの日露首脳会談で、安倍晋三首相とプーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることで合意しました。[参照:外務省 日ソ・日露間の平和条約締結交渉]

1956年の共同宣言には歯舞群島と色丹島を平和条約締結後に引き渡す規定があるため、この合意は「二島を軸にした決着へ移行したのではないか」と大きな注目を集めました。

ただし、外交交渉の具体的な内容すべてが公開されたわけではありません。領土交渉では相手国との交渉余地に直結するため、首脳間でどのような条件や案が検討されたのかについて非公開の部分があります。そのため、報道上の推測と政府が公式に確認した合意事項は分けて理解する必要があります。

「二島返還」「四島返還」だけでは実際の交渉を説明できない

北方領土問題については、「四島一括返還」「二島先行返還」「二島返還」といった言葉がよく使われます。しかし、実際の日露交渉を理解するには、それだけでは不十分です。

交渉では少なくとも、四島の帰属、歯舞・色丹の引渡し、平和条約を締結する順序、引渡し後の主権、島に暮らすロシア人住民の扱い、安全保障、共同経済活動、元島民の墓参・自由訪問などが関係してきました。

さらに日本とロシアでは「第二次世界大戦の結果」をどう評価するかという歴史認識・国際法上の主張にも大きな隔たりがあります。したがって島の数だけ合意すれば自動的に解決する問題ではありません。

2022年にロシアが平和条約交渉を継続しないと発表

長年続いた交渉環境は2022年に大きく変化しました。ロシアによるウクライナ侵略を受けて日本が対露制裁などの措置を実施すると、ロシア政府は2022年3月、日本との平和条約交渉を継続しないと発表しました。

同時にロシア側は、自由訪問・四島交流を中止し、北方四島での共同経済活動に関する対話から離脱することなども発表しました。さらに同年9月には、自由訪問と四島交流に関する合意の効力を停止する政府令を発表しています。日本政府はこれらのロシア側の対応について受け入れられないとして抗議しています。[参照:外務省 外交青書2025]

そのため、2010年代後半に進められていた平和条約交渉、共同経済活動、人的交流を組み合わせて解決への環境を整えるアプローチは、現在大きく停滞しています。

日本とロシアの主張はどこで食い違っているのか

日本政府は北方四島について日本固有の領土であり、日本が主権を有する島々であるという立場です。そして北方四島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結するという方針を示しています。

これに対してロシア側は、第二次世界大戦の結果として四島がソ連領となり、その主権がロシアに継承されたという立場です。また1956年の日ソ共同宣言についても、歯舞・色丹の引渡しの条件や引渡し後の主権などをめぐって日本側とは解釈・主張に違いがあります。

つまり最大の壁は、「どの島を渡すか」以前に、そもそも現在の領有をどのような歴史的・法的根拠で評価するのかという出発点そのものが一致していない点にあります。

北方領土交渉の流れを簡単に整理

時期 主な出来事 交渉上のポイント
1956年 日ソ共同宣言 国交回復。平和条約交渉継続と、条約締結後の歯舞・色丹引渡しを規定
1993年 東京宣言 四島の帰属問題を解決して平和条約締結を目指す指針を確認
2001年 イルクーツク声明 1956年宣言を基本的な法的文書として確認し、東京宣言に基づく交渉も再確認
2016年 「新しいアプローチ」 共同経済活動や元島民の墓参改善を含めた環境整備を推進
2018年 シンガポール首脳会談 1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速することで合意
2022年 ロシアが交渉継続拒否を発表 平和条約交渉、四島交流、共同経済活動などが大きく停滞

この流れを見ると、北方領土交渉は同じ要求を何十年間も繰り返していただけではなく、その時々の政治情勢に応じて交渉方法を変えてきたことが分かります。

まとめ:北方領土交渉は「島の返還」だけでなく平和条約まで含む複雑な交渉だった

北方領土をめぐる日ソ・日露交渉の中心には、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の帰属をどう解決し、最終的に平和条約を締結するかという問題がありました。

1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹の引渡しが合意されましたが、国後・択捉を含めた領土問題は解決できませんでした。その後、東京宣言やイルクーツク声明などを通じて交渉が続き、2016年以降には共同経済活動や元島民の墓参改善など、領土問題を解決しやすい環境をつくる取り組みも進められました。

2018年には1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速することで首脳間が合意しましたが、最終的な決着には至りませんでした。そして2022年、ロシア政府は平和条約交渉を継続しないことなどを発表し、交渉環境は大きく悪化しました。

北方領土交渉を理解するポイントは、「二島か四島か」だけを見るのではなく、帰属、主権、引渡し、平和条約、安全保障、現住民、共同経済活動、元島民の往来という複数の論点が連動していると捉えることです。こうした経緯を押さえると、なぜ70年以上にわたって解決が難しい問題となっているのかも理解しやすくなります。

より詳しい一次資料については、外務省が日ソ・日露間の交渉経緯を時系列で公開しています。[参照:外務省 日ソ・日露間の平和条約締結交渉]

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