樺太千島交換条約・ポーツマス条約は現在も有効?ソ連・ロシアの破棄通告と条約終了の国際法を整理

国際情勢

日本とロシアの領土関係を考える際、1875年の樺太千島交換条約や1905年のポーツマス条約が現在どのような法的意味を持つのかは、しばしば議論になります。特に「ソ連はこれらの条約を正式に破棄したのか」「ロシアが破棄を通告していないなら現在も有効なのか」という疑問は、条約の効力を単純な「破棄通告の有無」だけで考えると分かりにくくなります。

重要なのは、条約は必ずしも一方の国による「破棄通告」がなければ永遠に有効というわけではないことです。後に締結された条約、当事国間の合意、条約そのものの終了規定などによって、全部または一部の規定が終了・変更される場合があります。

日露・日ソ間の場合には、1917年のロシア革命、1925年の日ソ基本条約、第二次世界大戦、1951年のサンフランシスコ平和条約、1956年の日ソ共同宣言という複数の重要な出来事があります。そこで、歴史的な条約を年代順に確認しながら、現在の法的関係まで整理します。

1875年の樺太千島交換条約とは

樺太千島交換条約は、1875年5月7日に日本とロシア帝国との間で調印され、同年8月22日に批准書が交換された条約です。日本側全権は榎本武揚、ロシア側全権はゴルチャコフでした。[参照:外務省・樺太千島交換条約]

この条約によって、日本は樺太全島に関する権利をロシアへ譲る一方、ロシアからシュムシュ島(占守島)からウルップ島(得撫島)までの18島を譲り受けました。つまり、樺太と千島列島を交換することによって日露間の領域を整理した条約です。

なお、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島については、1875年の交換によってロシアから日本へ譲渡された地域という整理ではありません。日本政府は、1855年の日魯通好条約ですでに択捉島とウルップ島の間に国境が確認されていたとの立場を取っています。[参照:外務省・北方領土問題の経緯]

1905年のポーツマス条約で日露関係はさらに変化した

1904年に日露戦争が始まり、1905年9月5日に日本とロシア帝国との間でポーツマス条約(日露講和条約)が調印されました。批准書は同年11月25日に交換されています。[参照:外務省外交史料館]

この条約では、ロシアから日本への南樺太の割譲などが定められました。1875年には日本が樺太全島に対する権利をロシアへ譲っていましたが、日露戦争後には北緯50度以南の樺太が日本領となったわけです。

したがって歴史的な領土関係を考える際には、1875年の条約だけを切り離して見ることはできません。その後の1905年の講和条約によって、両国間の領域に関する法的関係が再び変更されたからです。

ロシア革命後、ソ連はポーツマス条約をどう扱ったのか

1917年のロシア革命によって帝政ロシアが崩壊すると、旧ロシア帝国が締結した条約を新しいソビエト政府がどのように扱うのかが問題になりました。日本とソ連が正式に国交を樹立する際、この問題について明確な取り決めが行われています。

それが1925年1月20日に北京で署名された「日本国及『ソヴィエト』社会主義共和国聯邦間の関係を律する基本的法則に関する条約」、一般に日ソ基本条約と呼ばれる条約です。

ここで非常に重要なのが第2条です。ソ連は、1905年9月5日のポーツマス条約が完全に効力を存続することを約束しました。つまり、ソ連政府は帝政ロシアが締結したポーツマス条約を否定して破棄したのではなく、1925年に改めてその効力を明示的に承認しています。[参照:外務省外交史料館・日ソ基本条約関係資料]

ソ連はポーツマス条約を「不当な条約」と考えていた

ただし、ここには興味深い事情があります。ソ連はポーツマス条約の法的効力を認めた一方、その条約を政治的・歴史的に肯定したわけではありません。

1925年の日ソ基本条約への署名に際して、ソ連側全権カラハンは声明を出し、ポーツマス条約の効力を承認することは、ソ連政府がその締結について旧帝政政府と政治的責任を分担することを意味しないという趣旨を明らかにしました。

つまり、「この条約を政治的に正当だとは評価しない。しかし条約としての効力は認める」という区別がなされていたわけです。この点は、条約に対する政治的評価と法的効力が必ずしも同じではないことを理解するうえで重要です。

では樺太千島交換条約は1925年にどう扱われたのか

1925年の日ソ基本条約第2条では、ポーツマス条約だけが特別に「完全に効力を存続する」と規定されています。

一方、1917年11月7日以前に日本とロシアの間で締結されたその他の条約・協約・協定については、後に両政府間で開かれる会議で審査し、変化した事情に応じて改訂または廃棄することができるとされました。1875年の樺太千島交換条約はこちら側に位置付けて考える必要があります。

したがって「ソ連が成立した瞬間に1875年の条約が自動的に消滅し、ポーツマス条約もすべて否定された」という理解は正確ではありません。少なくともポーツマス条約については、1925年の日ソ基本条約でソ連自身が効力の存続を明示しています。

1945年にソ連はポーツマス条約の破棄を通告したのか

第二次世界大戦末期の1945年、ソ連が日本に対して行った有名な通告としては、ポーツマス条約ではなく日ソ中立条約を延長しないという通告があります。

日ソ中立条約は1941年4月に締結され、有効期間は5年間でした。そして期間満了の1年前までに廃棄の通告がなければ自動的に5年間延長される仕組みでした。ソ連は1945年4月に日本へ延長しない旨を通告しています。外務省も、この条約について1946年4月まで有効であったとの説明をしています。[参照:外務省・北方領土問題の経緯]

そしてソ連は1945年8月9日に対日参戦しました。ここで重要なのは、日ソ中立条約の不延長通告と、ポーツマス条約の破棄通告は別問題だということです。

1951年のサンフランシスコ平和条約が大きな転換点

戦後の領土関係を考えるうえで最も重要な文書の一つが、1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約です。

同条約で日本は、千島列島ならびに1905年9月5日のポーツマス条約の結果として日本が主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄しました。

このため、例えば「ポーツマス条約をロシアが正式に破棄していないのなら、日本には今でも南樺太を領有する条約上の権利が残っている」という結論にはなりません。日本自身が戦後の平和条約において、ポーツマス条約によって取得した南樺太に対する権利等を放棄しているためです。[参照:外務省]

ただしソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していない

ここが日露領土問題をさらに複雑にしているポイントです。ソ連はサンフランシスコ講和会議には参加しましたが、最終的に平和条約へ署名しませんでした。

日本政府は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島や南樺太について、条約本文にはそれらをソ連へ帰属させるとの規定がないと説明しています。また、ソ連は同条約に署名していないため、同条約に基づいて権利を主張することはできないというのが日本政府の立場です。

この点と「日本が権利を放棄したこと」は分けて理解する必要があります。日本がある地域への権利を放棄したことと、その地域の主権が特定の国へ帰属したことは、国際法上必ずしも同じ意味ではありません。

1956年の日ソ共同宣言で戦争状態が正式に終了した

ソ連がサンフランシスコ平和条約に署名しなかったため、日本とソ連は別途交渉を行いました。その結果、1956年に日ソ共同宣言が締結され、両国間の戦争状態が終了し、外交関係が回復しました。

日ソ共同宣言は単なる政治声明ではなく、両国の国内手続きを経た法的拘束力のある国際約束です。日本政府によれば、この共同宣言は現在も法的に有効です。ロシア側もソ連の承継国として同宣言の有効性を確認してきました。[参照:外務省・北方領土問題に関するQ&A]

したがって現在の日露関係を考える場合、19世紀の条約だけではなく、第二次世界大戦後の法的処理と1956年の日ソ共同宣言、その後の日露間の合意を含めて判断しなければなりません。

現在のロシアが改めて「樺太千島交換条約を破棄」する必要はあるのか

現在の領土関係を決めるために、ロシア政府が今になって1875年の樺太千島交換条約や1905年のポーツマス条約について単純な「破棄通告」を出さなければならない、と考えるのは適切ではありません。

19世紀から20世紀前半の条約によって成立した領土関係は、その後の戦争と講和、条約、権利放棄などによって大きく変化しています。特に日本自身が1951年のサンフランシスコ平和条約で千島列島およびポーツマス条約によって得た南樺太への権利等を放棄したことは無視できません。

また、現在の日露間には北方四島の帰属をめぐる未解決の問題があり、日本政府は北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結することを基本方針としています。[参照:外務省・北方領土問題の概要]

「破棄通告がない条約は永久に有効」とは限らない

一般論としても、条約は「相手国から破棄通告が届かない限り永久にそのまま有効」という単純な仕組みではありません。条約の終了方法は、その条約自身の規定や当事国の合意、後の条約との関係などによって決まります。

条約法を体系化した1969年の「条約法に関するウィーン条約」では、当事国の同意による終了などのほか、同じ事項について後の条約が締結され、その内容から旧条約に代えて新条約で規律する意思が明らかな場合などには、先の条約が終了したとみなされ得ることが規定されています。[参照:国際連合・条約法に関するウィーン条約]

例えばA国とB国が「国境はX地点とする」という条約を結んだ後、両国が新しい条約を締結して同じ国境をY地点へ変更すれば、旧条約について形式的な「破棄」という名前の文書が存在しなくても、新しい合意との関係から旧規定をそのまま適用することはできません。

古い条約が歴史資料として重要であることと現在有効であることは別

樺太千島交換条約やポーツマス条約は、現在の日露領土問題を理解するうえで極めて重要な史料です。しかし、歴史的な領有権の変遷を証明する条約であることと、その条約の全規定が現在もそのまま日露間を規律していることは別問題です。

例えば樺太千島交換条約は、1875年時点で日本とロシアがどのように領域を整理したかを確認する一次資料として大きな意味を持っています。同様にポーツマス条約は、1905年の日露戦争終結時に南樺太がどのような根拠で日本へ割譲されたのかを確認する重要な条約です。

一方、現在の法的状態を判断する場合には、それより後に締結された条約や戦後処理を含めて検討する必要があります。古い条約だけを現在へ直接当てはめることはできません。

北方四島と樺太・千島列島を混同しないことも重要

この問題を調べる際には、南樺太、千島列島、北方四島を一括りにしないことも重要です。日本政府は、サンフランシスコ平和条約によって千島列島への権利等を放棄した一方、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる北方四島は同条約で放棄した「千島列島」には含まれないとの立場です。

ロシア側の主張とは一致しておらず、この点こそ現在まで続く領土問題の核心の一つです。そのため「1875年の条約が有効か無効か」という一問だけで現在の北方領土問題に結論を出すことはできません。

日露双方の立場が対立しているテーマでは、一方の政府の説明だけをそのまま国際的に確定した事実と扱うのではなく、歴史上の条約本文、戦後の国際文書、日本政府の法的立場、ロシア政府の立場を区別して読むことが大切です。

まとめ:破棄通告の有無だけでは現在の条約関係は判断できない

樺太千島交換条約は1875年に日本とロシア帝国が締結し、日本が樺太全島への権利をロシアへ譲る代わりに、シュムシュ島からウルップ島までの18島をロシアから譲り受けた条約です。その後、1905年のポーツマス条約によって日本は南樺太を取得しました。

ロシア革命後のソ連はポーツマス条約を単純に否定したわけではありません。むしろ1925年の日ソ基本条約第2条で、ポーツマス条約が完全に効力を存続することを明示的に約束しています。一方、それ以前の日露間のその他の条約については、後の会議で審査し、必要に応じて改訂または廃棄できる仕組みが定められました。

第二次世界大戦後には状況がさらに変化し、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で千島列島およびポーツマス条約によって取得した南樺太への権利、権原、請求権を放棄しました。そのため「ロシアがポーツマス条約を破棄していないから、日本には現在も南樺太への条約上の領有権がある」という理解にはなりません。

そして一般的な国際法についても、条約は必ず「破棄通告」という形式を取らなければ終了しないわけではありません。条約自身の終了条項、当事国間の合意、後に締結された条約との関係など、複数の事情によって効力が終了・変更される場合があります。

したがって樺太千島交換条約やポーツマス条約の現在の意味を考える際には、「ソ連やロシアがいつ破棄通告したか」だけを探すのではなく、1875年の条約→1905年のポーツマス条約→1925年の日ソ基本条約→第二次世界大戦→1951年のサンフランシスコ平和条約→1956年の日ソ共同宣言という一連の法的・歴史的経緯を通して理解するのが適切です。

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