ロシアによるウクライナ侵攻が長期化するなか、次に注目されやすい地域の一つがエストニア、ラトビア、リトアニアの「バルト三国」です。ロシアと国境を接する国があり、旧ソ連を構成していた歴史もあるため、「ウクライナの次にロシアが軍事行動を起こす可能性はあるのか」という議論がたびたび浮上します。
ただし、ウクライナとバルト三国には安全保障上の決定的な違いがあります。バルト三国はすべてNATO加盟国であり、一国への武力攻撃はNATO全体の集団防衛に関わる問題になるからです。この点を無視して「ウクライナで苦戦したから次はない」「ロシア系住民がいるから次はバルト三国だ」と単純化することはできません。
この記事では、2026年時点のNATOの公式情報を踏まえながら、バルト三国とウクライナの違い、NATO第5条が持つ意味、民族・言語と安全保障の関係、そして軍事侵攻以外に警戒されているリスクまで整理します。
- バルト三国とはエストニア・ラトビア・リトアニアの3か国
- ウクライナとバルト三国の最大の違いはNATO加盟
- NATO第5条は「自動的に全加盟国が同じ方法で参戦する」という意味ではない
- 2026年現在もNATOはロシアを長期的な脅威と位置づけている
- 一方でバルト三国への正面侵攻には非常に大きなリスクがある
- NATOはバルト地域を含む東部防衛を強化している
- フィンランドとスウェーデンのNATO加盟もバルト海の環境を変えた
- バルト三国は「スラブ系ではない」という理解は大筋で正しいが注意も必要
- そもそも「スラブ系かどうか」だけで侵攻リスクは判断できない
- 軍事侵攻以外の「ハイブリッドな脅威」も重要
- 「侵攻しない」と断言することも「次はバルト三国」と断言することも難しい
- まとめ:バルト三国はウクライナと安全保障上の条件が大きく異なる
バルト三国とはエストニア・ラトビア・リトアニアの3か国
一般に「バルト三国」と呼ばれるのは、バルト海東岸に位置するエストニア、ラトビア、リトアニアです。3か国はいずれもかつてソビエト連邦を構成していましたが、1991年に独立を回復しました。
その後、3か国は西側諸国との統合を進め、2004年3月29日にそろってNATOへ正式加盟しました。NATO公式の加盟国一覧でも、エストニア、ラトビア、リトアニアはいずれも2004年加盟国として掲載されています。[参照:NATO加盟国一覧]
さらに3か国はいずれもEU加盟国です。つまり現在のバルト三国は、単にロシアに隣接する旧ソ連諸国なのではなく、欧州の政治・経済・安全保障体制に組み込まれた国家として理解する必要があります。
ウクライナとバルト三国の最大の違いはNATO加盟
ロシアがバルト三国へ直接的な軍事侵攻を行う場合を考えるうえで、最も重要なのがNATOです。ウクライナはNATO加盟国ではありません。一方、エストニア、ラトビア、リトアニアはすべてNATO加盟国です。
NATOの北大西洋条約第5条では、欧州または北米における一つまたは複数の加盟国への武力攻撃を「全加盟国に対する攻撃」とみなす集団防衛の原則が定められています。加盟国は攻撃を受けた国を援助する義務を負い、その措置には必要と判断された場合の武力行使も含まれます。[参照:NATO・集団防衛と第5条]
したがって、例えばロシア軍がエストニアへ明白な武力攻撃を行った場合、それは単純な「ロシア対エストニア」という二国間戦争にとどまらない可能性があります。米国、英国、フランス、ドイツ、ポーランド、フィンランド、スウェーデンなどを含むNATO全体の集団防衛に直結し得るからです。
NATO第5条は「自動的に全加盟国が同じ方法で参戦する」という意味ではない
ここは誤解されやすい部分です。第5条は「一国が攻撃された瞬間、32か国すべてがまったく同じ軍事行動を自動的に開始する」という単純な仕組みではありません。
NATOの説明では、加盟国は攻撃された国を支援するため「必要と認める行動」を取ることになっています。その支援には武力行使が含まれ得ますが、具体的な対応は状況によって決まります。[参照:NATO・第5条の仕組み]
それでも第5条の存在は極めて大きな抑止要因です。バルト三国への攻撃を計画する側は、3か国の軍事力だけではなくNATO全体との衝突へ発展するリスクまで計算しなければならないためです。
2026年現在もNATOはロシアを長期的な脅威と位置づけている
「ウクライナで大きな人的・物的コストを負った以上、ロシアはもうNATO加盟国に手を出さないだろう」と考えたくなるところですが、少なくともNATOはその前提で安全保障政策を組み立ててはいません。
2026年6月更新のNATOの抑止・防衛に関する公式説明では、ロシアによるウクライナへの侵略戦争を欧州大西洋地域の安全保障に対する重大な脅威として位置づけ、加盟国が抑止・防衛態勢を強化していると説明しています。[参照:NATO・抑止と防衛]
さらに2026年7月のNATOアンカラ首脳会議宣言でも、ロシアが欧州大西洋地域の安全と安定にもたらす「長期的な脅威」に対抗する方針が示されています。つまりNATO側の公式認識は「ウクライナ戦争でロシアの脅威はなくなった」というものではありません。[参照:NATOアンカラ首脳会議宣言]
一方でバルト三国への正面侵攻には非常に大きなリスクがある
NATOがロシアを脅威として警戒していることと、「ロシアが近いうちにバルト三国へ侵攻する」と断定することは別問題です。将来の国家指導者の判断を確実に予測することはできません。
ロシア側から見れば、NATO非加盟国への攻撃とNATO加盟国への攻撃では戦略的リスクが大きく異なります。バルト三国への直接攻撃は、核兵器を保有する米国、英国、フランスを含むNATOとの大規模な対立へ発展する可能性を伴います。
ウクライナでの戦争によって生じた人的損失、装備の消耗、経済的負担なども軍事行動を考える際の制約になります。しかし「大きな損失を経験した国は二度と別の軍事行動を起こさない」という法則があるわけではないため、これだけを根拠に将来の侵攻可能性をゼロと評価することもできません。
NATOはバルト地域を含む東部防衛を強化している
抑止は条約の文章だけで成立するものではありません。そのためNATOは東部加盟国に実際の軍事態勢を整備しています。
NATOは2014年のクリミア併合、そして2022年のウクライナ全面侵攻を受け、東部地域の抑止・防衛態勢を大幅に強化しました。2026年6月のNATO公式情報では、東部地域により戦闘準備の整った部隊を配置し、冷戦終結後で最も包括的な防衛計画を整備していると説明されています。[参照:NATO東部地域の防衛強化]
エストニア、ラトビア、リトアニアにも多国籍部隊が展開しており、バルト地域では航空警戒なども行われています。これは実際に戦争を始めるためというより、攻撃を計画する側に「攻撃すれば複数のNATO加盟国との衝突になる」と認識させる抑止の意味を持ちます。
フィンランドとスウェーデンのNATO加盟もバルト海の環境を変えた
ウクライナ全面侵攻後には北欧の安全保障環境にも大きな変化がありました。フィンランドは2023年、スウェーデンは2024年にNATOへ加盟しています。現在NATOは32か国体制です。[参照:NATO加盟国]
フィンランドはロシアと長い国境を共有し、スウェーデンはバルト海の中央部に位置するゴットランド島を領有しています。その両国がNATO加盟国となったことで、バルト三国を取り巻く安全保障上の地理は2022年以前とは異なっています。
したがって現在のバルト地域を考える場合、「ロシア対バルト三国」だけを見るのでは不十分です。北欧、ポーランド、ドイツを含めたNATO東部・北部全体の軍事態勢を見る必要があります。
バルト三国は「スラブ系ではない」という理解は大筋で正しいが注意も必要
民族・言語については、バルト三国を一括して「スラブ系」と考えるのは適切ではありません。エストニア語はフィンランド語などに近いウラル語族の言語です。一方、ラトビア語とリトアニア語はインド・ヨーロッパ語族のバルト語派で、ロシア語などのスラブ語派とは別系統です。
ただし「国民全員が非スラブ系」という意味ではありません。ソ連時代などの歴史的経緯からロシア系住民も暮らしています。例えばエストニア統計局によると、2026年1月時点でエストニアの人口の68.5%がエストニア人、20.2%がロシア人とされています。[参照:エストニア統計局]
ラトビアでも2026年初めの人口に占めるラトビア人の割合は63.8%で、ロシア系住民を含む少数民族が存在します。リトアニアの2021年国勢調査ではリトアニア人が84.6%、ロシア人が5%でした。つまりバルト三国にはそれぞれ異なる民族構成があります。
そもそも「スラブ系かどうか」だけで侵攻リスクは判断できない
国家間の戦争を民族系統だけで説明することには限界があります。安全保障政策では、軍事力、同盟関係、地理、国内政治、経済、指導部の判断など多数の要素が影響します。
実際、ロシアが全面侵攻したウクライナではウクライナ語とロシア語はいずれも東スラブ語群に属します。それでもロシアとウクライナは別々の主権国家であり、言語・民族上の近さが国家主権を否定する根拠になるわけではありません。
したがって「バルト三国はスラブ系ではないからロシアは関心を持たない」とも、「ロシア系住民がいるから侵攻する」とも単純には言えません。現在の安全保障を考えるうえでは、民族よりもNATO加盟と抑止態勢のほうが直接的に重要な要素です。
軍事侵攻以外の「ハイブリッドな脅威」も重要
バルト地域で警戒されているのは、戦車や歩兵による全面侵攻だけではありません。サイバー攻撃、偽情報、政治的干渉、破壊工作、領空侵犯、重要インフラへの妨害など、通常の戦争と平時の中間に位置する活動も安全保障上の問題になります。
2026年3月のNATO年次報告に関する記者会見でも、ロシアによる領空侵犯、破壊活動、悪意あるサイバー活動、政治的干渉、情報面の脅威などが挙げられています。またバルト海の重要な海底インフラを保護するため「Baltic Sentry」と呼ばれる活動も実施されています。[参照:NATO 2026年3月記者会見]
この点は「侵攻する・しない」という二択だけでは見えにくい部分です。全面戦争を避けながら相手国へ圧力を加える手段は多数存在するため、バルト三国の安全保障問題ではこうした活動も重要な観察対象になります。
「侵攻しない」と断言することも「次はバルト三国」と断言することも難しい
将来のロシア政府がどのような判断をするかは誰にも確定できません。そのため「ウクライナで苦戦したので絶対にバルト三国には侵攻しない」と断言するのは根拠が不足します。
反対に、「ウクライナの次は必ずバルト三国」という断定にも慎重であるべきです。バルト三国にはNATO第5条というウクライナにはない安全保障上の条件があり、NATOも東部地域の防衛態勢を強化しています。
より正確な見方は、バルト三国への正面からの軍事攻撃にはNATOとの全面的な対立へ発展する極めて大きなリスクがある一方、可能性をゼロとみなさずNATO各国が抑止と防衛を続けている、というものです。
まとめ:バルト三国はウクライナと安全保障上の条件が大きく異なる
エストニア、ラトビア、リトアニアは2004年からNATO加盟国であり、北大西洋条約第5条の集団防衛の対象です。ロシアがバルト三国へ明白な武力攻撃を行えば、一国との戦争ではなくNATO全体との対立へ発展するリスクがあります。この違いは、ウクライナとバルト三国を比較するときの最重要ポイントです。
また、バルト三国の主要民族・言語はロシア人・ロシア語と同一ではありません。ただし各国にはロシア系住民も暮らしており、民族構成は単純ではありません。そして民族的な近さ・遠さだけから軍事行動を予測することも適切ではありません。
2026年現在、NATOはロシアを長期的な安全保障上の脅威として扱い、バルト地域を含む東部地域の抑止・防衛を強化しています。一方で、それは「バルト三国への侵攻が決まっている」という意味でもありません。「絶対に攻撃しない」と安心することと、「必ず攻撃する」と予言することのどちらも避け、NATOの抑止力、ロシアの軍事能力と意図、ハイブリッド活動などを継続的に分けて評価することが、バルト三国の安全保障を理解するうえで重要です。


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